『”道”とは・・・』
(人生における正射必中)
副 会 長
川瀬 英機
我々が嗜んでいる弓道には、『道』という言葉がついています。
第三者から 「何か健康に良いことをなさっていますか?」との問いに「『弓道』を嗜んでいます。」とか「『弓道』を少々・・・」などと『弓道』と答えています。
『弓』一字でも意味は通じるのにどうして『弓道』と称するのでしょうか。
それは『弓道』が日本の【武道】の一種であるからではないでしょうか。
日本の武道には、剣道、柔道、空手道などと『道』という言葉がついていますし、武道自体が武の道と書きます。
そしてこれは武道だけに限りません、華道、茶道、香道などと、文化的なことにも『道』がつきます。
インターネットに掲載されているある先生の論文によると
《『道』と言う言葉には、それを学ぶ事を通じて【人としての正しいあり方を学ぶ】という意味があります。天道といって、天に繋がる道という考え方も込められています。
天とは天国と言う意味ではありません。
天に住む神がされている人間としての理想の生き方の『道』の意味です。
天は仏教の仏陀と同じ様な意味を持っています。
弓の道においても、弓を射る技術を言うのであれば「弓術」でよいのです。
それを『弓道』と呼ぶと言う事は、弓術とはその求めるものが違う事を意味しています。学ぶ目的が違う事を指します。
道という考え方も突然現れたのではありません。
多くの人が、同じ所を歩む中から、良い物は残され、悪い所は取り除きながら、淘汰に淘汰を重ねて、えりすぐったものが道として、現在に伝承されている内容となります。
それらは常に社会性を反映していて、当然の事として「人としてのあり方」「人としてのあるべき姿」を反映しながら、組み立てられて来たと考えられます。》
と述べられています。
弓道教本にも
《日本の弓は戦術の中で発達しながら、儒教の影響を受けて「技」から『道』へ進んだのである。
技術には倫理はないが、『道』には当然倫理が伴う。
「射は進退周還必ず礼にあたる」というのはそれである。》
と記されています。
儒教=孔子を祖とする教えで、修己治人を目的とする。
修己治人=自己を修養して徳を磨きその徳で人々を感化して世を安らかに治めること。
倫理とは、『道徳』、『人間として行わなければならない正しい道』
と辞書に記されています。
ところで、弓道人である我々は如何でしょうか。
"人としての正しいあり方を歩んでいるのでしょうか"
『射即人生』、『射即生活』と言って弓道の教えを日常生活にも活かし、常日頃の一挙手一投足を弓道に繋げながら生活していますが、その行いは如何でしょうか。
倫理に背いていないでしょうか。
法に触れるとの認識があるなしに関わらず、法に触れることをしてはいないでしょうか。
我々が利用している矢の羽根は、猛禽類や水鳥等を主に使用しています。
中でも何故か猛禽類が珍重されているようで、その中でも特にワシントン条約でそれらの捕獲や矢羽の取引が禁止されている物に人気が集中しているようです。
何故なのか、たかが矢羽ではないのか、この羽根は石打だとか、符の形がどうのこうの、と評されるのを耳にしたことがあります。
しかし法に触れる行為で取得取引された矢羽の矢を使用することが、【正射正中】となり、弓道の『道』には背かないのでしょうか。
この様なことを考えるのは、持てぬ者のやっかみかもしれませんが・・・ 。
法には触れないことかもしれませんが、国の政を司る人が倫に不ず行為を行っていると報道されたり、先達がご自身で決められるべき出処進退を、周りが画策して決定してしまったり等など、私の眼では『道』に背く行為ではないのだろうか?と思われることが見受けられます。
我が弓道人はこのような行為を間違っても行ってはいけないと思いますが、皆さんの考えは如何でしょうか。
振返って自分自身はどうかと考えると、人としての正しいあり方を学んで実践しているつもりですが、倫理に背く行為は全く行っていないと胸を張って言い切れるか、自信がありません。
例えば、車を運転していて交差点にさしかかった時、あと数十メートルで交差点を渡りきれるのに、あいにく信号が青から黄色に変わりました。
そんな時、皆さんは直ぐに止まりますか。
私は黄色の間に交差点を突き切れそうだと自己判断して突っ切ってしまうことがありました。
そんなことを踏まえ、弓道人として『道』に背かない事を常日頃から心掛け、人生においても【正射正中】を目指したいと思っています。
(H24.7.1)