『我が弓道人生の軌跡』
副 会 長
北村 一郎
この度、水橋会長から副会長就任への要請があったときは青天の霹靂とでも言いましょうかビックリすると共に浅学非才の身でありながらこのような大役をと躊躇しました。
しかし、一方これが今自分が置かれている立場でもあるのかと考え友人にも相談した上でお受けいたしました。よろしくお願いします。
今回広報部より投稿の指示がありましたので、この際私の事を少しでも知っておいて頂ければ今後お仕事をしてゆく上で都合が良いのではないかと思いペンを取りました。
私の弓道人生は、国鉄・金沢鉄道管理局弓友会に入会する事により始まりました。
昭和43年初夏、職場の先輩機関士(後の故 錬士 宮村 和男先生)に誘われ兼六園弓道場に行きました。弓・矢・?・的等見るもの全て新鮮なものでした。しかし、一週間ほど通いましたが自分に合わないと思い止めました。
でも、これが運命なのか、約一年後に又もやその先輩機関士と乗務する事になり嫌とも言えず必然的にまた一緒に弓道場へ通う事と成りました。
ある日、自分の射た矢が的に中り「ポン」と音がしました。そのポンという音が何故か心に残り、知らず知らずの内に夢中になって行き時間の空いているときは殆んど弓道場へ通う事が日課となり、昼食代が高くなるのでおにぎりを持って通うほどに成っていました。
(今から考えても何故そこまで夢中になってのめり込んで行ったのか分かりません)
国鉄の弓道は歴史が古くまた、大変盛んで地区大会・ブロック地区大会・全国大会とあり、チーム編成は、監督・補欠各1名、選手7名で合計9名です。
試合形式は、最初の4射は坐射で行い羽分け以上の選手から射技賞(優射賞)を選出する。
(合計8射) (参段以下の部と四・五段の部に分かれていて、審査員は開催県の先生方)
後の4射は坐射または立射で行う
全国大会出場選手の決定は、優勝チームを中心に射技賞、個人の入賞等を考慮し編成する
私の所属する中部ブロックには、長野、静岡、名古屋、金沢の各鉄道管理局と浜松工場があり、いずれも強豪揃いなので金沢は優勝を望む事は出来ません。しかし、どうしても全国大会に行きたい。その為には射技賞を頂くか又は個人の上位入賞が一番の近道と考え、3月頃から6月頃までの9時から15時頃、日中は殆んど練習に来る人が居ませんので、ときには先輩の機関士と共に坐射で膝が痛くなるまで練習し、その後は立射で矢数をかけました。
弓の習い始めから、仲間内で競射するときは「坐射」となっていたので国鉄の試合にも早く馴染み、中部ブロック大会で個人優勝したり、上記の練習をするようになってから昭和58年には、中部ブロック代表選手団の一員となり夕闇迫る秋田県営弓道場に於いて、射詰2回の末全国優勝の栄誉に輝いたときにはフラッシュの光の中で全身が熱くなり、これまで経験した事の無い深い喜びと共に全国優勝の重みを肌で感じる事が出来ました。
そして、チーム代表で納射をされた選手は後に範士となられた先生で、あたかも水澄ましが水面を滑るが如くの体配と的中により、そのバランスの取れた美しさに見とれてしまい優勝した事を忘れてしまうほどの感銘を受けました。
この二つの経験は弓道を継続して行く上での基本的な考え方に成っていったと思います。
また、学校弓道を指導する上においても考え方の基礎を成すものとなりました。
昭和50年10月頃だったか、木場先生と初めてお会いしたとき「自分は、優勝請負人ではないから勝ってくれと言われても困る、弓道の型だけで良かったら・・・」と言ってしまった。勝つ事に自信が無かったのである(今も自信なんてありませんが)。それでも弓道部の体制を整え、体配を教え射型を整えてゆくと試合にも勝つようになってきました。しかし、インターハイには出場できませんでした。期待された成果が中々出ないと、調整の仕方や弓道部の運営について等色々な方から色々なご意見を頂きました。
「2年後の昭和60年に石川県で開催されるインターハイに出場するため、少し厳しいがやり方を変えて頑張ります」と木場先生にお話ししました。弓道場内での指導について先生は一切口出しはせず全面的に支持して頂きましたが、その腹の太さに私の方が責任を感じ押しつぶされそうになったときも有りました。生徒には厳しかったかも知れなかったが、予選トップで通過しました。しかし、トーナメント1回戦で敗退してしまった。
原因は、私がトーナメント戦に対する勉強不足だったからです。
その後、試行錯誤を繰り返しながら毎年毎年全員が一体となって努力して稽古した結果、インターハイ団体・個人とも全国優勝また全国選抜大会に於いても団体・個人とも全国優勝それに射道優秀校等数々の栄誉を頂く結果となりました。
ここまで頑張ってこれたのは部員一人一人の努力と、木場 邦学先生、増田 英樹先生、中田 智晴先生はじめ関係する先生方のたゆまない御努力があったからであります。
私はこれからも、大それた事は出来ませんので、あくまでも黒子として「一隅を照らす」ことをモットーに、基本を大切にした弓道の修練を継続して指導してゆく事が出来ればと考えています。
今年の県体では卒業生が10名以上も参加しており、挨拶を交わす度にとても幸せな気分になりました。こんなに早く弓道場に戻ってくるとは思っていなかったからであります。
お声をかけて参加要請して頂いた方に厚く御礼申し上げます。
これからも、弓友の皆様の御指導御鞭撻を宜しくお願い申し上げましてペンを置かせて頂きます。
(H24.8.30)