『弓 道』

副 会 長
岡本 順文
岡本順文先生から、文化財関係の地方雑誌「七つ尾」(発行:財団法人 七尾城祉文化事業団)に寄稿されたものをいただきました。

 弓道には他の多くのスポーツに見られないたくさんの特徴があります。それは、
    中学生から高齢者まで誰でもできる。
    男女を問わず
    体力に応じた強さの弓で 体格に関係なく
    相手が居なくても ひとりで的に対して 何時でも
    初心者・高齢者のスポーツや趣味としても最適です。
 スポーツは一般に、男女・年齢の差・体格・体力などによって優劣が決まることが多い。しかし、弓道は少し違っている。
男女の差はあるが、その差は決定的なものでは無い。女性が上位の事が時々起る。年齢の差も同じで高齢者が勝つ事がある。
体格・体力に於いて、ほとんどのスポーツはそれによって優劣が生じる。が、弓道ではあまり体格・体力の差は関係ない。
この様に弓道は一般のスポーツと様相を異にしている。その上、相手が居なくても一人で的に対して、何時でも練習できると
言う利点を有している。しかし、道場が必要である。指導者が少ない(石川県の場合)。難しいなどの欠点もある。
 弓矢を使用することにより古代人の生活は豊かになり、古代人にとって狩猟や漁猟に欠くことのできないものは弓矢であった。
しかし、やがて弓矢が闘争の武器として使用されるようになり、鉄砲が使用されるまでは最も有能な兵器であった。しかし、弓矢は、実利的器具即ち鉄砲の出現によって用事は無くなり、江戸時代には鍛錬の用具としての弓矢となり、射法となったのである。
 明治末期から大正・昭和にかけては次第に中等以上の学校体育に採用され、一般にも大いに普及したが、弓道の射形は江戸時代から昭和初期にかけて多種多様で多くの流派があった。昭和二十年に敗戦になり大日本武徳会は解散を命ぜられ、弓道も学校教育から除外され一般にも殆んど顧みられなくなり廃絶の形となった。その後、日本弓道連盟が確立され、昭和二十六年学校教育にも教材として弓道が再び採用された。
 室町時代末期以後、射形の特徴によって色々の流派が起こり九流十派があったといわれている。そのうちの主なものを騎射・歩射・堂射に区分すると
 騎射……武田流・小笠原流・三浦流
 歩射……斜面打越によるもの 日置流・吉田流・大和流・印西派・雪荷派・大蔵派・道雪派・尾州竹林派・紀州竹林派・寿徳派
   ……正面打越によるもの 小笠原流・本多流
 堂射……尾州竹林派・紀州竹林派・雪荷派・道雪派・大蔵派
 昭和二十六年学校教育にも教材として弓道が再び採用された其の時、多くの流派を統一して学校教育の指導に充てようとした。
そして生まれたのが本多流を元とした現在の日本弓道連盟であり、弓道教本である。
 この様に多くの流派を統一する目的で作られた弓道教本はスポーツの面を担う以上、心身鍛錬のいわゆる難行苦行的な考え方より脱し、運動生理・運動力学・体育向上の観点に立った弓を目指さなくてはならない。そして、それに加えて弓道教本が立派なのは弓に精神的・倫理的な面を加えたことにある。この事は弓道に段・級と称号の二通りの流れがありそして審査もある。段・級では級位は五級より一級にいたる五段階。段位は初段より十段に至る十段階である。段位は主に技術で、三段では射形定まり、体配落着き、射術の運用が法に従い、矢飛び直く的中やや確実な者。とされている。称号は指導者の資質・人格・品位を重んじている。称号は錬士・教士・範士の三段階である。この称号の制度は弓道の持つ特徴、即ち徳操高潔、技術円熟、識見高遇なる弓道となっている。
この称号の制度は相撲道・柔道には見られない人格・品位ある武道を造りあげた。
   弓道の用具には
    弓の種類 竹弓、合成接着弓、竹・カーボン合成弓、グラスファイバー合成弓、
         カーボン合成弓
    矢の種類 竹……一文字・杉なり・麦粒・砂目・十二角・八角
         ジュラルミン……一文字
         カーボンシャフト……一文字
    ゆがけ  三つがけ・四つがけ・諸がけ
 弓道の修練には射法八節が大切である。射法八節を列記すると
   1 足踏み   足幅は身長の約半分 角度六十度〜七十度
   2 胴造り   腰をすえ上体を正す。
   3 弓構え   矢をつがえる。取懸けをする。弦を親指の根元にかける。親指は反らす。
      (取懸け)左手で弓を握る。親指の根元で押す。上押しをかける。
           右手の親指を弦にかけて矢を押さえる。
      (物見) 両肱を少し外側に張り、顔を的に向ける。
   4 打越し   両手を高く遠く。
   5 引分け   (大三)弓手(左手)は弓を押し、馬手(右手)は肘に力を入れ矢束の半分程引く。
   6 会 詰会  矢は口割り。下弦は胸に。
       伸会  左右に押し引きを持続す。
       殻   満身の努力と心気を込めて弓を押し引きつづける。
   7 離れ    弓手(左手)は角見を働かせ弓を押し開け、馬手(右手)は大きく開く。胸の中心で弓を割る気持ち。
   8 残心・残身 約二秒。
この様に射法八節の射法とは弓矢をもって射を行う場合の射術の法則で、弓道を修練するにはまずその基準となる射法をよく理解することです。弓道はとても難しくて八節を完全にこなす事が必要である。
 さて、私が弓道を始めた頃の國學院大學の弓道部は、道場は武道禁止によりサークル活動の部室で戦後七年間 土足のままであがっていたものだから、床の上を泥がたまっていて掃除が大変でした。道場は気楽な雰囲気で沢山の学生・職員・先輩が出入りしていました。部員は皆、もちろん初心者でした。師範の石岡久夫先生は手取り足取りでご指導して下さいました。それで弓道にのめり込んでしまったのです。道場のななめ上の二階の教室がいつもの講義室なので、道場より友人に代返を頼んだ事も数多くあります。遊びも勉強も女も忘れて弓を引きました。朝登校して下校するまで弓を引きました。
 秋には大学リーグ戦に加入して出場しました。当時は慶応・早稲田・明治・立教・中央・東大・國學院の七校で、翌年あたりから教育大・一橋・東洋大が加入した。リーグ戦は弓を手にして半年ぐらいしか経っていないので、いざとなるとダメなものであり体が震えてしまいました。それでも十名程の部員は石岡先生の御指導のもと懸命に練習し、先生もまた熱心にご指導して下さ
いました。
 お蔭で主将にもなり、短い年数で五段を認許されるまでになった事は、これ偏に石岡先生の御指導のお蔭だと思っております。
皇居内済寧館の五段認許の時は、"早すぎる・まだ若い"との反対意見がでましたが、先生のお助言により合格となりました。また、
方々の試合や道場に連れて行かれ、千葉胤次先生、宇野要三郎先生、浦上栄先生、村上久先生等多くの諸先生方の射を拝見出来たことを幸せに思っています。
 石岡先生の御指導は弓道の技術にとどまらず礼儀・試合・試合作法・服装・射礼・竹弓または矢の矯正・直衣の着用方法・天地祓・古式射法・弓具の修理・弓道場の作り方・古い文献など非常に多方面にわたりご指導が及びました。このことは小生の一生の大きな財産となりました。
(H25.5.19)




『回顧録』

副 会 長
岡本 順文
「弓道を始めた理由」
 小生が國學院大學三年生の頃は、神道青年会の溜まり場にいました。ある日、大学弓道部OBの方々が来られ「今度再び弓道部を作るから(太平洋戦争のため廃部)名前を貸してくれ。」と云われ気楽に貸してしまった。
その後、「弓道部の発会式に出席してくれ。交通費は出すから。」と云われ無理に出席させられました。
 大宮八幡神社の弓道場でおばあさんが射かれる弓を、弓道そのものを初めて見ました。
それから、立派なサツキ園で神社の家族とお菓子の会に誘われ(当時は食糧難の時代)、見たこともないお菓子をビックリして食べた事を思い出します。
そして、発会式。
10名程の大学弓道部OBの方々は疎開時に持ち帰っていた戦前の弓具を私たちに下さいました。戦前の部員名簿とともに……。
それから宴会が始まり酒・すき焼き(牛肉・野菜・砂糖・豆腐・こんにゃく・醤油等)、ビックリしましたね。敗戦後の食糧難の時代ですから。すき焼きまでが 出るとは……。
弓道はとても素晴らしいものだと入部を決意したのでした。(結局食べ物につられて……)

「師範・石岡久夫先生との出会い」
 それから毎日勉強を忘れ、授業を忘れ(授業は代返を頼み)、女を忘れて弓を引きました。
間もなくして國學院大學に弓道師範・石岡久夫先生が大学講師兼弓道部監督として就任して下さいました。
小生は初心者ですし先生の最初の弟子です。
弓道の初歩から高度の直衣を着けた矢渡し・天地祓いなども教わりました。
矢・弓・かけの特徴や補正・それらの修理など家庭へ押しかけ家族の皆さんと仲良くなる程に習ったものです。
先生はその頃「弓道教本」の原稿を手掛けていました。私たちはよくその実験台になったものです。特にかけの親指の型でその影響を未だに受けています。写真を撮る手伝い・矢の飛行跡を調べる道作り等今でも思い出されます。
 大学四年生の時では、復興弓道部初代主将を務めリーグ戦では勝ち負けに関わらず最後の一本は的中する事が宿命づけられました。リーグ戦で特記すべきは女子が選手として出場したことでしょう。
 翌年、弓を引きたくて卒業後一年間 大学の神道専修科へ入学し弓道を習いました。楽しかったです。先生の助手の様な手伝いもしました。
また、その頃はよく中たりました。国体予選・先生と一緒に道場破り・五段合格・方々の道場の諸先生方への紹介と射の拝見等多くの事を学びました。

「弓への思い……」
楽しかった一年間が終わろうとしたそんな折、突然浮上した養子の話。
東京での就職の事・大学での弓道助手の事・すべてを忘れ、弓をあきらめて石川県のさらに田舎の孤島、能登島に引き籠もりました。
もう弓は引けないと思いながら……。
(H25.1.21)