『昇段の栄に浴して 恩師の光背を偲ぶ』
ゆうゆうクラブ
名誉 会長
山田 達之
この度は、図らずも七段昇段の栄に浴し、不徳の身に余る光栄と存じております。
これも、推薦にあたっての県連会長をはじめ、関係各先生方のお力添えに加え、会員各位の暖かいご支援の賜と存じ、厚く御礼申しあげます。
回顧すれば、私こと 昭和17年中学校弓道部に入部以来、昨年春身体上の不具合で弓道関連の役職をすべて退去するまでの70年間、多少の曲折はあったものの付かず離れず弓道を人生の標とし、師とし、友として過ごしてこれたのは、偏に弓道の持つ不朽の魅力と、折々にご薫陶を賜りました、今はなき恩師のお陰と銘記しております。
終戦後、私が弓道を再開したのは、昭和31年でした。兼六園弓道場へ恐る恐る弓道具を持って出かけ、最初にお会いしたのは宮田庄太郎先生でした。白銀の八字ひげをもつ明治の気骨あふれる先生は、気宇壮大な射を体現して見せて、小手先だけの器用な射を強く戒められたのを記憶しております。
昭和48年 私が出羽町の庁舎に勤務していた頃、近くの兼六園弓道場へ足繁く通いました。そこでお会いしたのは、後に日弓連の副会長をなされた、上田喬弘先生でした。
先生は、富山県から北陸電力石川支店長に栄転され、当時、兼六園弓道場の管理をしておりました板垣吉兵衞先生と、道場で談笑しておいでの時でした。温厚柔和な風貌の先生は、小笠原流の真髄を見るような厳格・緻密な中に、鳳の舞を思わせる瀟洒・優美な猶予迫らぬ射を披露されました。
先生の教訓は先生の著書「弓道散歩」に詳述されており、多言を要しないところですが、要約すれば、基本に忠実であれ。 正射は正鵠 (的の中心の黒点)を射る。と云うことであったと思います。
昭和51年 私は東京本社へ転勤になり、中野区に居住しました。幸いなことに、近所に区立中野弓道場があり、早速通いました。そこでお会いしたのは、当時の日弓連副会長で、弓道教本の執筆編集者であられた、範士十段村上 久先生でした。
先生は杉並区にお住まいでしたが、日頃の練習は中野道場でした。先生はまた、金沢市ご出身と云うことで、私は特にご薫陶をいただきました。
長身痩躯の先生は、一点の隙もない厳格・高尚な中に、光背のような輝きを放つ射を体現されました。私は、ここでの修練のお陰で錬士を戴きましたが、先生は、有段者には優しく、称号者には極めて厳しく指導されました。
先生は、称号者たる者は、"艶"のある射を極めなさい。と、よく云われました。 当初は、その真意が汲めず迷いましたが、先師の方々の射を繰り返し見ることで漸く悟るものがありました。それは、射法八節に基づくだけの射は、いかに正確でも、観る人に何の感動も印象も残さない。身から滲み出るような洗練された艶を放つ弓人を目指しなさい。と、云うことだと悟りました。
このことは、云うは易く具現は難しいことです。ましてや艶を意識しての射は見苦しいだけです。たゆまぬ真摯な習練から自然と身につくものだと知りました。
私の弓歴の中には、まだ書き尽くせない多くの恩師の方々がおいでますが、紙面の都合もあり、ここで、重ねて七段昇段の御礼を申しあげますと共に、併せて恩師の方々のご冥福をお祈りして筆をおきます。
(H24.9.24)
注:「弓道石川」に掲載されたものをこちらにも掲載させていただきました。